N0.8 ドラと98年フランス大会(5) 02/02/01

   
 

7月12日。決勝の日を迎えました。決勝をスタジアムでとのお誘いもあったのですが、私1人で行く気になれません。どんな結果になろうとも、喜怒哀楽を分かち合える家族と共にいることを選び、友人からもらったブルーのユニホームを身に付け、父と一緒にテレビで観戦しました。

国歌吹奏。歌詞には少し問題があるのではないかと言われている「ラ・マルセイエーズ」ですが、こんな時には最高の歌だと思います。

そして、試合開始、ブラジルは、準決勝戦とはどことなくちがう感じ、なんとなくぎこちなさを感じました。後の報道によると、ロナウドの具合が悪かったなどの問題があったようです。でも、我がレ・ブルーはいつものレ・ブルーです。そして、前半にコーナーからジズー(ジダン)が2点もとってくれました。これで、予選リーグのレッド・カードでチームに迷惑をかけたことは帳消しです。何回か危ない場面もありましたが、フランスは本当に強かった。後半、デサイーがイエロー・カード2枚で退場になってしまいましたが、負ける気はしませんでした。そして、最後にプティがだめ押しの3点目を入れました。
試合終了のホイッスル。アン、ドゥー、トロワ−ゼロ、フランスの優勝です。
至福の時。家族と抱き合って喜び合いました。「ヴィブ ラ フランス」。やはり家族と一緒で良かったと思います。  

少ししてから、みんなでシャンゼリゼへ繰り出しました。すごい人です。200万といわれています。こんな状況は、1945年5月8日の第二次世界大戦のパリ開放(リベラシオン)以来のことです。でも1つだけ悲しいことがおきました。信じられないことに、自動車この大群衆に突っ込み多くの重軽傷者でたことです。いつまでも、終わらない1日でした。  

翌7月13日には、シャンゼリゼでパレードが行われました。私も妹と一緒に見にゆきました。レ・ブルーは2階建てのオープンバスに乗って現れました。この時も、彼等を一目見ようと、またもや人々が大挙しておしかけ、バスの周りを取り囲みました。大群衆に囲まれゆっくり行進する選手達は何を思っていたのでしょうか?とにかく、たいした事故もなく無事にパレードが終了したことは幸いです。

大会前も大会中も、レ・ブルーの監督エメ・ジャケ(Aime JACQUET)を批判し続けたレキップ紙もついに彼に平伏しました。新聞の見出しには「Aime les aime. Aime est aime.」「エメは皆を愛してる。エメは皆に愛されている。」でした。

こうして、私のワールドカップフランス大会は終わりました。
そして、この時から、私にとっての「ワールドカップ2002」が始まりました-- 日本サッカーの恩人として有名なクラマーさんの有名な言葉のように--「試合終了のホイッスルは、次の試合開始のホイッスルだ。」